能力は「借りもの」という意識

 

先日、NHKの「ハーバード白熱教室」を見ていて、正義とは何かについて考えました。
 
曰く、生まれ、人種、容姿、地位などが一切分からない「無知のベール」を想定したときに、人はどんな制度を選ぶだろうか、と考えることで、「正義とは何か」が分かると。
 
生まれたときからどのように生きるか決まっている、封建制度は選ばれないはずだ。奴隷に生まれたら一生奴隷と決まっている、そういう制度を人が選ぶとは思えない。
 
では、能力主義はどうか。
能力主義は、封建制度よりは、よい制度だと論じられていた。但し、これでも十分ではないと。つまり、生まれつき足の速い人もいれば、走るのが元々苦手な人もいる。素質は、自然の与えた偶然によって決まるもので、本人が努力して獲得したものではない。
 
また、「能力」は「努力」の結果だと主張する人の多くは、元々素質がない人が努力をして、結果としてあまり社会に「貢献」できなかったとして、それを評価しないのではないか。つまり「努力」という言葉の真意は「貢献」であると論じられていた。これは、穿った見方をすれば、素質に恵まれたものが、そうでないものをいじめるための口実になる。
 
だから、純然たる能力主義は、封建制度よりはマシだけれど、十分ではない。
 
 
では、どんな制度なら、正義に適っているのだろうか。
 
番組では「格差主義」だと論じられていた。
能力を十分に発揮して、社会に貢献し、その対価を受け取って自分が豊かになることは、是か非かという議論において、
 
たとえば税金を納めるといった形で、最も恵まれない者にも恩恵があるような仕組みがあれば、能力を発揮した対価を受け取って、自分が豊かになることが正当化される。
 
というものだった。
 
その論拠が、能力は、本人の努力による部分もあるが、勤労意欲といった、「努力する能力」に関しても、生まれ持った素質があり、努力すら、全てが本人に属するとは言えないから、というものだった。
足が速い、頭がよい、などの素質は言わずもがなである。
 
 
私は以前から、能力は神さまから預かった借りものという意識を持っています。
この人生の間、貸してもらっているわけですから、十分に活かせばよいわけですが、借りものですから、100%自分のためだけに使ってよいのかと言えば、そうではないと思います。
 
私は、心理学や哲学、人間の生き方について考えることが好きで、それを文章にしたり、このような理解に基づいてカウンセリングをしたりすることを仕事にしていますが、この能力の全てをお金に換えて、自分を豊かにすることにのみ使うべきかと言えば、そうではないと考えています。
 
このようにして、無料で情報を提供する形で、他人に貢献することもすべきだと考えていますし、(威張れるほど稼いではいないですが)稼いだお金のうち一部を税金で収めることで、福祉に役立ててもらうことも大事だと考えています。
 
やはり、私たちが持って生まれた資質や、どんな家柄に生まれたかという「生まれ」など、本人の責任と意志によらない「幸運によるギフト」は、手放す必要はないものの(私はここを平らにならす、平等主義には反対の立場です)、そのようなギフトに恵まれなかった人のためにも活かすことが、正義に適っていることだと考えています。