「サイコロで1の目が出る確率は、出るか出ないかの二分の一」理論について思うこと

 

ちょっと色々調べ物をしていたら見つけた話。
 
「サイコロで1の目が出る確率は、出るか出ないかの二分の一」 理論
 
【狼と香辛料】というライトノベルの作者の理論
らしい。
 
以下、引用。

サイコロを一度しか降れなければ
一の目が出る確率は
その目がでるか出ないかの二分の一である
たくさんの回数を降れてこそ
さいころのそれぞれの出る目は六分の一なのである
だとするならば
どうして人はこれほどまでにたくさんの可能性を未来に見るのであろうか
(以下略)

 
 
さて。
どうしたものでしょうか・・・
 
確かに、人生の多くの場面で、事前の情報が、これからの展開の予測に役立たないことは多いと思います。
 
私の身近な話で言えば、ビジネスモデルとか。
 
私がやっている、カウンセラー業。
コンサルタントが、これまでの常識から判断し、成功する「確率」を見積もったら、カウンセラーなんてなるの、やめておきなさい。貧乏すること確定だよ。
そうアドバイスしてもおかしくないと思います。
 
その通りになってしまった人も、実は多い。
しかし逆に、ちゃんとやれてる人もいる。
 
起業した人の中には、
プラモデルの彩色とか、趣味レベルのスペイン語なのに先生やってるとか、口笛とか(笑)
そんなの絶対商売にならないよ、って言いたくなるようなもので、稼いでいる人がいる。
 
だから、人生に関して言えば、
事前の情報から見積もりました、という話そのものが、
「それ本当にちゃんと予測になってるの?」って話なんだろうと思う。
 
複雑な世界だから、人間の意識などと言う処理能力の低いもので考えて、判断つくものじゃない。
 
だから、やる前から成功する確率なんて計算するな。
やってみてから考えろ。
というのは、人生哲学としては意味があると思う。
 
 
がしかし、
サイコロというのは、
六面体に作ってあって、ほぼ、同じ確率で全ての面が出るようにできている。現実世界のサイコロには少しゆがみがあって、何万回と振ってみたら、全くの等確率で目が出るわけじゃなくて、少し偏りがあることは、きっと分かってくるはず。
但し、それは、1/6に近い「誤差」であって、1/2には全然近くない。
 
 
ちなみに実は、確率というのは、同じ言葉で表される、微妙に異なった、複数の概念なんですね。
 
純粋に数学的な「サイコロ」を定義して、それの出目の確率は、と言ったら、1/6なんですね。これは、理論的に確率が決まるケース。
 
一方で、現実世界のサイコロで、何万回と振って、そのサイコロのクセを、統計的に整理した場合も、だいたい1/6になりますが、これは理論的、というより経験的に(かつ正確に)確率を求めたケースと言える。
 
天気予報の「雨の降る確率」というのは、これは結構いい加減な数字で、なぜかというと「厳密に同じ天気図」というものは二度と出てこないので、繰り返しがないから。一回限りのものについて「確率」と言っているので、数学的には、これを確率とは認めない、という立場もあるわけです(認める立場もあります)。
 
 
さて、こんな風に色々な「確率」がある中で、
 
ベイズ主義という考え方があるんですね。
ベイズ主義の対義語は頻度主義です。
頻度主義ってのは、学校で習う確率のことです。「全ての事象の場合の数で、該当する事象の場合の数を割る」という話。ふたつサイコロを振って目の和で3が出る確率は?と聞かれたら、3が出る場合は(1,2)(2,1)というふた通りで、一方全ての事象は6×6で36通りなので、2/36→確率は十八分の一、ってのが頻度主義。
 
 
ベイズ主義でも、頻度主義と考え方が一致する場合も多いのですが、
異なるケースもあります。
 
たとえば、これは有名な例らしいのですが、
「ゆがんだコインがあり、どちらかの面が出る確率が3/4である。表の目が出る確率はいくつか?」
という問題。
 
頻度主義の考え方では、
・もしも表が出る確率が3/4のコインであったなら、3/4。
 逆に裏が出る確率が3/4のコインであったなら、1/4。
 いまは情報が無いので、どちらなのかは「分からない」
というのが答えになります・・・が、
 
一方、ベイズ主義の考え方では、
・表が3/4で出るという情報を知っているAさんにとっては、
 問いの答えは3/4である
・表か裏かという情報が無いBさんにとっては、
 表も裏も、確率は1/2と考える。
と、なります。
 
頻度主義で考えると、どちらかの面が3/4で出ると「分かっている」のだから、表の出る確率が1/2となることは「ありえない」、となるのですが、
 
ベイズ主義においては、情報が無いなら、とりあえず1/2と置いて考える、となるわけです。しかも情報を知っている人と、知らない人で、同じコインの確率が変わってしまうわけです。
 
 
頻度主義で扱うのが苦手な分野が、
事象が起きる確率についての、事前情報が不足しているケースです。
現実世界の出来事は、大抵そうですけどね。
 
そういう場合に、ベイズ主義は「情報が無いなら、とりあえず1/2」などの仮定を置いて良い、と考えるわけです。情報が入った時点で、その確率を「更新する」ことを考えます。つまり、あとから確率が変わる可能性がある、ということ。
 
あるサイコロの目、あるコインの裏表。その出る確率が、当該サイコロや、当該コインが、何も変化していないにもかかわらず、確率を予測する人が持っている「情報」によって、変わってしまう、という何とも変な感じがする世界、それがベイズ主義の確率です。
 
だから、あるコインの表が出る確率は、
表が3/4で出ると知っているAさんにとっては、3/4になり、
それを知らないBさんにとっては、1/2になるという、
情報を知っている人と、知らない人で、確率が違うという話が出てきます。
 
これが、ベイズ主義による確率が「主観確率」などと呼ばれる理由です。
学校で習う「頻度主義」では、あくまで確率は客観的で、ひとつに決まるべきであって、情報の差により、人によって確率が変わるなんて話は、一切認められません。
 
 
さて、長くなりましたが、冒頭の、
「サイコロで1の目が出る確率は、出るか出ないかの二分の一」理論。
 
ベイズ主義の「情報が無ければとりあえず1/2と置いて良い」とするものを、元にして作った作者の独自理論のように見えます・・・
 
が、情報が無い=サイコロの目で1が出ることの他に、何も知らない
ということですよね。
 
つまりこの作者、サイコロの目に1があることは知っているが、それ以外にどんな出目があるか知らない、ということになります(残念ながら、自ら無知であると公言したようなもの)。
 
サイコロに1,2,3,4,5,6の目があると知っていれば(情報がある)、それぞれ同様に確からしい出来事と考えて、それぞれの出目が1/6であると仮定するのが、ベイズ主義でも一番妥当な仮定になるはず。
 
 
それを、出るか出ないかなので1/2とする、と言ってしまうということは、
「私はサイコロの目で1があることは知っているが、その他の目は知らない。サイコロが何面体なのかも知らない」と言っているのと(ベイズ主義的に考えれば)同義です。
 
やはり、サイコロで1の目が出る確率は、
1/6と考えておくのが、主義にかかわらず妥当だと思いますけどね。
 
 
(Q&Aサイトなどでも、この質問が取り上げられていて、でもほとんどは、回答も「頻度主義」の枠から出ていなかったので、質疑がかみ合っていなかった気がしまして。要するに回答者のツッコミが足りない気がしたので、ここに、がっつりツッコミを入れた記事を書いてみました。)